昭和45年11月27日 朝の御理解 ★
御理解 第94節『信者に不同の扱いをすな。物を余計に持ってくると、それを大切にするようなことではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ』
お取次ぎをして下さる先生に対する御理解だと思います。そこんところを信者側から頂くという、例えば、この94節を頂いたらどういう事になるかというと。ほんとそげん言や、うちの先生は、もうえらい独度(どくど?)があると、いうような見方ではなくて、うちの先生にあり、いわゆるうちの親先生であり、または、取次者にあり。その取次者をですね、金光大神として見ると、ね。金光大神の手代わりをなさる先生を金光大神と見ると。そういう見方をした時に、例えばどういう事になるだろうか。御道の先生は、独度があるといったような、えー、まあ事実があったにせろ、その先生が金光大神であると。まあ、言うならば金光大神が即、神様である、という頂き方。ね。そういう頂き方をさせて…、こらまあ、信者側の頂き方ですね。そこには、私は、いわゆる神様に大事にされておられる人ということになるのじゃないでしょうかね。
先生が人間心使うて大事にしておるという見方には、これは信者自体がおかげを頂くことが出来ないと思うんです。ね。取次者不信と。最近、そういう会話ありますね。先生に参りよるとじゃなかけんで、神様に参りよるとじゃから。ほらもう先生はろくな人じゃなかばってん、こっちな神様に参りよるとじゃからと。といったような表現をする人がありますね。
それではね、やはりおかげは頂けないはずですね。やはり取次者即、金光大神。金光大神即、天地の親神様だというような頂き方。これは、お取次ぎを願う者としての、言わば、そういう頂き方の出来れる信心を頂かなきゃならん。そういう頂き方の出来れる信心をね、信心の篤いのが真の信者じゃと言うておられます。そういう頂き方の出来れる信心を、金光教で言う真の信者じゃと、真実の信者じゃというふうに頂いたらどうでしょうかと。一心にお参りが出来よるという事だけではです。してみると、やはり、何て言うですかね、神様に大事にされる。
これは、私の立場で申しますと、思いますですね。これは、私の立場で申しますと、私が大事にしたからと言うておかげを頂くことは決してありませんね。やはり神様に大事にしてもらいなさらなければならんという、神様がおかげは下さるのだから、ね。神様に大事にされれる信心に縋って頂くようにとしか願わない。私がおかげをやるのならね、別ですけれども。私じゃない。やっぱりおかげを下さるのは神様。
昨夜、土居の共励会でございました。久富繁雄さんの所です。もう遅う時分、ここにお出でにでられまして、そいで、えーあのー、茶の間でしばらくお話をさせて頂いたんですけれども。最近、これは文男さんの一生懸命な願いというか祈り、一心の真を捧げての願いが、えー、こと幹三郎の事に集中して、その事を皆さんが一生懸命に願い、これ程しの願いが、これ程しの沢山のお人の勢信心によって、ほんとにおかげが頂けん筈はなかろうと思われるような、まあ熱烈なものにだんだんなって。今月の焦点であるところの、ほんとに一心の真を捧げての願いという事に足並みが揃うて。だから、まあ、おかげを頂く筈だということにもなりますけれども、ならそれを、受けて起たせて頂く取次者。皆さんのその一心の願いを、言わば私の取次、私の信心でね、受けてそして、それを神様に取り次がせてもらう。そこには、人情を挟むという事は出来ない。自分の子供だからという事ではない。また、であってはならないと。まあ、じっとくに自分でそう思ってまいりました。
まあ、そういうところが皆さんのそうした、一生懸命な願い、しかも沢山の人の願いと、私の取次に、まあまあ、あー…、まあ、言うなら願い方が良かった、取次が良かったという事に、まあなって、なら現在、まあ日々広大なおかげを頂いておる。
昨日から、一昨日ですかね、抜糸があり、昨日はこの管を挿してあった、その管から流動物を取っておったのが管が取れた。そして、食事が出来るように段々なってきた。昨日、まあ余談ですけれども、家内が御礼に出て参りましてから、あの、抜糸をしてからこっち、どうもその機嫌が悪い。もう日にも十回位鏡を見せちくれち言うてから鏡を見る。自分のやはり顔を眺めて傷が出来たりして、そういうところからやっぱ悲観した気持ちやらがあるのじゃないでしょうかと。だから家内が「あんたごとそげんボーっとばっかりしとらんな、これだけ沢山の祈りの中にあって、これだけ有り難い取次を頂いて。しかもまあ、病院では奇跡と言われる程しのおかげを頂いておって、そげんこっちゃいけんじゃないの」ち、言うてから昨日言うたところが、「お母さんなあ分からんね、僕はこげんしとったちゃ心でこう喜びよるとじゃけん」ち言うたち。ね。と言う程しに、まあ、おかげを頂いていっとります。
もう日々、まあ薄紙を剥ぐようにといったようなものではなくてから、もうごろごろおかげを頂いておるという感じでありますね。そういうおかげを頂いておるという事がです、ね。皆さんの一生懸命の願い、それを御結界で受けて、私が起たせてもろうてここに私心があっちゃあならない。御粗末な心であってはならない。それをそのまま神様に御取次させて頂けれるおかげを頂かなければならんという思い方と、相まってそういうおかげを頂いた。まあ言うならば、その取次者、信者が、まあいうなら一糸乱れぬ信心によってです、一糸乱れぬ一分一厘間違いのない御働きの中におかげを蒙っておるということが言えれるでしょう。そこでこれは、私も神様に大事にされるなら、そういう信心に打ち込んで下さる人達の上にも、やはり神様から大事にされれるものがなからなければならんという事です。
これは、手術前後の頃から頂いておるんですけれどもね、えー、うーん、例えば、今度幹三郎がおかげを頂くということは、もういよいよ枯れ木に花の咲くようなおかげだという事です。ね。だから、その枯れ木に花の咲くまでの信心過程というものがです、例えば、あー、犬を殺されても臼を割られてもね、そこにやっぱ花咲か爺さんの心意気というかね、そういう心の状態というものが、殺されずに生きておる。いつも、言うなら、馬鹿と阿呆で道を開けであり、いつもどのような場合でもどのような時でも喜びで受けていこう、喜びで、喜び喜んでもおかげを頂こうという、そういう心意気のもとに、そんなら、私始め皆さんもそういう信心の稽古をしておるし、私もそこに、まあ決していきたいと願っておる、そこに例えば、臼を割られたであり、犬を殺されてたであるという事になる。まあ言うならば、そこに難儀の問題が起きたとこういう事です。その難儀の受け方がですね、ね、その違うわけです。ひとつのおかげといったような、まあ、おかげを頂くにいたしましてもね、やはりその時だけの信心では駄目です。常日頃、言うなら信心が出来ておるというか、ね。常平生に肥料が施してあるから、いよいよの時にはひとりでに物が出来るものであろうという事をです、例えば信じておる。という程しの所までお互いの信心が高められてきてあると。
まあ、言うなら枯れ木に花が咲くようなおかげが見え始めてきた。言わば見えて来た。そしてまあ、枯れ木に花が咲いたという程しのおかげを神様がご覧下さって、神様が喜んで下さる。言うならば、神様の働きを十全になされる程しの、こちらの信心が態勢が出来てきた。神様が喜んでくださらん筈はない。私共も有り難いのですけれども、そこで神様はね、なら、私に枯れ木に花が咲いた。ね。言わば、通りがかりの殿様に枯れ木に花が、それをお見せした。そこで殿様は、そのお爺さんに「こら見事だ」と、ね。ご褒美を取らせたいと。ね。(みどる?)に任せたいと。さあ、何でも良いからご褒美を願えという事になっておる。というのが、そういう雰囲気が日々、私と神様との間にはある。
そこで私は、そんなら神様、こういうおかげを下さいと、いうものがありそうであるけれども中々ない。ないと言うか、考えさせられる。そのこと私夕べ皆さんに話したんです。どうですか皆さんならば。神様がね、ご褒美は、その、何でも、まあ願えと。何でもやると言うて下さってあるのですから、その、何を以って、その願いとされるだろうかと。皆さんに尋ねたですけれど、皆さん中々、私ならこれを下さいという、まあ、下さるというならです。
私、まあ、ひとりひとり聞かして頂いたけどなかなかその・・・、うーん、実際にその、毎日やっぱお参りして、毎日お願いしよんなさる。だからその、お願いしよよなさる事を出してみなさいち申しましたですけれどもね。なかなか出らん。してみると、今願いよるということがおかしな願いだからこそ出らないのだなと、私は、まあそういうふうに決め付けたわけなんです。め。毎日お参りして、毎日お願いをしておるでしょうが。だからその事を、まあどうぞ下さいち、願いおる以上の事を、その、願いになってこない。願っておることを願われたい。
ところが、なら、どう願いよんなさるかというたら、なかなか出てこないというところをみると、人に言われんような願いをしよんなさるに違いはないとまあいうわけです。
そしたら、久富繁雄さんがここにこっと言われましたですね。「親先生の御徳の裏付けのある財が欲しいです」。親先生の。いわゆる信心の裏付けのある財が欲しい。財ということはおかげという事です。ね。これは、私まあ、素晴らしい、ある意味での答えだとこう思いますね。自分がお願いをして、自分に儲けさして下さいとか、ね、おかげのお繰り合わせを下さいといって直接神様に願うというんではなくてです、金光大神の言わば徳の裏付けのあるおかげが欲しいというのである。
牛泥棒というお芝居が、もう何十年前に見たおしました。お父さんが牛泥棒。それが発覚して取調べを受ける。どうしても白状しない。そこでその、妻や子供が呼ばれて、まあ一緒に調べを受ける。それを見ておる家内や子供達に白状させようという訳。ね。その、取調べをする役人が子供にね「本当の事を言え」と「お前が本当の事を言うたらね、おまえの、その、一番欲しい物をやる、ご褒美に」「お前の願いを何かひとつ聞いてやる、だから、本当の事を言え」と言うもんですから、子供はね、「お父さんが盗りました」と言う。その状況を報告したら、ほら親父はそれを聞いてびっくりして「この親不孝者が」と言うて怒りますけれども、ね。その子供が、役人に願いを申しました事はね、「ああた、本当の事を言うたら、ね、自分の願いをひとつ聞いて下さると言うたから本当の事を言うたんだ」と、「どうぞ、父の罪を許してくれ」と言うわけなんです、というてその、親も子も許されるというお芝居なんですけどね。
だから、同じ願いならですね、そういう願い方があるとでしょうがね。ただ自分の血圧なら血圧の病気を治してもらいたいとか、儲かりがないなら、おかげがいっちょ頂きたいというような、私は願いではなくてですね、いや、その願いであってもね、久富さんが言われるようにね、親先生の徳の裏付けのあるおかげが頂きたいと思うんです。ね。私、これなどはね、いわゆる金光大神を即、神様として頂いておられることであり、親先生を即金光大神として頂いておられる考え方から生まれてくるんじゃないかとこう思いますね。 実を言うと私自身も神様からそう言われておりますけれども、ならこれを下さい、これは勿論、人が助かることさえできればという精神のもとにね、お取次さして頂いておりますよ。だから、より沢山の方が助かりますようにというような願いではね、どうもまだ足りない気がする。
そこで私は今朝あたり御祈念で思わして頂いたことはです、これ程しに一生懸命一心の真を捧げてね、願っておられる方達。ね。また、その真を取り次がせて頂いて私心が入ってはならないとしてです、神様にその事を願いお取次をさせて頂いておる私。そこに例えば奇跡というようなおかげが表れた。その事を神様がいたくお喜びになって、褒美をとらそうと言うて下さるなら、これは私だけが頂いたんじゃあいけない。そういう一心の真を捧げてお願いをなさっておられる、一心の真をもっての信心をなさっておられる方達と一緒に頂けれるおかげ。
そういうおかげを願う事は、不同な事になるだろうか。そのことだけに。ここに参っておる人は、例えば三百人あるとする、その中の百五十人が一心の真を捧げて、例えば幹三郎なら幹三郎の事を願っておられる。そんならその一心の真を捧げて願っておられる方達だけにです、今度ご褒美を下さろうと言うならば、ご褒美を私と共に下さりたい、頂きたい、と願う事は不同な扱いをすることになるだろうか。私は、不同な扱いじゃないと思うね。当然な事だと思いますね。そういう信心こそ、私はて篤い、いわゆる「信心の篤いのが真の信者じゃ」と言われる真の信者だと私は思いますね。
私の神様が下さろうとするご褒美を、どういうご褒美を頂きたいと、こう頂きたいという願いが少しはっきりしてきたように思う。そしたら、御神前で頂きます事はね、★『森光ひかり』という事を頂いた。もりという字は木を三つ書いたんですね。みつは勿論、光。いわゆる木は心という、心がそこに一つになっておるという事です。私は何日もかかってどういう事を願おうか、どういう事を、下さるならば頂こうかと思うておることがです、ははーだんだん私の考え方がこうまとまってまいりましたらです、私の頂こうとする願いがあんまり間違いではないなという事になってきた。一心の真を捧げて願うという、いわゆる心が一つに集まった。
そこに例えば、光のおかげが頂かれる。それを願わなければならないなと。これから言わば、(合楽的常識的?)に申しましょうか、合楽全体がおかげを頂いていかなければならない事は沢山ありましょう。一人二人の願いでは成就しないことがあります。
そこで、只今、今月私の焦点を地を以って願ってきた、信心してきた一心の真を捧げて、皆が心がそこに一つに集まるという稽古をさせて頂いてです、そういうまとまった一つの力、信心というものがですこれからの、例えば合楽のあり方の部分も現されていく、言うならばこの信心を持ち続けさせて頂けれる事を願わして頂くという事。そこにです間接的にいよいよ合楽に人の助かる場というようなものがはっきり出来てくる。その中に私共めいめいもあるというようなおかげになってくる。
最近、近くで取り上げられてる幾つかの問題。これは、だいぶんやはり難しい問題だけれども、いよいよ合楽が大きくなるという意味じゃなくて、いよいよここに、合楽に人が助かる事の為の、ひとつの下準備といったようなものがです、なされようとされてある。そういうようなものが成就していく事は、これは言うならば直接のご褒美じゃないけれども間接的なご褒美に繋がっていく事である。またそういう事の内容に、お互い一人一人の信心があるという事にです、めいめいの助かりもそこから頂けてくる。
一心の真を捧げてみようという事が、しかも一人よりも十人、十人よりも百人の者の力を合わせて願うという事がね、幹三郎の上に表れておるような、あのような奇跡なおかげが頂けれるようにです、これからの例えば、合楽と言うよりも教団と言えばもっと大きいことになりましょうけれども、まあ実感としてですね、合楽の願いとでも申しましょうかね、合楽願とでも申しましょうか、ものがひとつひとつ足元から成就していく事のおかげを頂いていくという事。
そういう信心がなされる人達の上にです、例えば私が、そういう人達の上にです、一緒にご褒美を頂かせて頂こうと願う事は、私は不同ではない。それは当然の事としてです、私も願わしてもらえる、当然の事としてです、神様に大切にされれる事になるというふうに思うのです。
いよいよ神様に大切に、ね、神様が言うならばね、えー、不同の扱いをいよんなさるとじゃろうかと思われる程しのおかげをひとつ頂いて頂きたいとこう思いますね。ね。先生が不同の扱いを、これは先生に対する御理解ですから、取次者に対して、信者に不同の扱いをすなと、こう言うておられますけれども、お互いの信心がだんだん高度に高められてくると取次者即、金光大神。ね。久富さんが願うておられることはそういうことだろうと、こう思います。親先生の徳の裏付けのあるおかげが欲しいと。これはもう親先生ではない。即金光大神という頂き方からそういう事ができたのであろうと、こう思うんです。ね。金光大神即、天地の親神様。
その天地の親神様が言うならば、不同の扱いをなさっておられる程しにです、おかげを受ける人受けない人の開きがはっきり出てくる。それには、今月の信心の焦点「一心の真を捧げて願う」ということが、このような枯れ木に花の咲くようなおかげが受けられるという事実をです、お互いが分かった。のですから、こういう信心がです、次の月、また次の月には、私共の信心、終章です。一心の真を捧げて、しかも沢山のいわゆる勢信心ですね、一人よりも十人、十人よりも五十人、百人とまとまっての事になるとこのような力が発揮される、その発揮される力をです、教会の上に現していこう。教会の上に現されるそのおかげがです、その教会の中にある私であり、一信者である。教会が大きくなる事は、私共が大きくなる事である。教会に力が出来る事は、私共に力が出来る事である。と思われる程しのです、信心を頂きたい。それにはね、打って一丸になっての、言わば願いの焦点というようなもの対してです、一心の真が捧げられれる信心の稽古をさして頂きたいと思います。
今日の94節の御理解にピッタリしてるかどうかは別としましてです、ね。そういう、私は、まあいかにも不同の扱いをしとるようで不同ではない。ね。共々におかげを頂いていきよる、共々に神様に不同の扱いをされておられるのじゃないかと思われる程しのおかげを頂いていく事こそ、私は本当なことじゃないかと思いますね。 どうぞ。
入力者 末永 清和